ブックタイトル宅建協会50周年記念誌

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宅建協会50周年記念誌

せていました。看板にはかなり金をかけてやりました。私の二男坊が建売業に長いことおりまして、彼によれば、新聞広告よりずっと電ビラの方が効き目がある、と。だから止められないんだという話でした。上原新聞広告にはお金がかかりますからね。最低でも1万2千円でしたから。司会仲介などの手数料ではトラブルはなかったですか?島袋中部では50年代、60年代の初めごろまでは、新聞に2回出したら完全にお客さんがつきました。それ以外はブローカーなんです。取り締まりを始めたものの、それでもブローカーが関与してきて、手数料の話ですけれど、ひどいときには我々と半分半分とか、責任は取らないけれど儲けは半分。だんだん我々も知恵がついてきて、ブローカーがだんだん排除されて、(ブローカーが受け取る)手数料の金額も変わっていきました。司会宮古の方ではいかがですか。宮古では地域の有力者にまとめてもらっていた-當間當間ブローカーの話ですが、僕のほうは物件をまず押さえることが不動産業のスタートでしたので、地域の有力者にこの土地、この辺をまとめてもらえないか、とお願いするんです。それは決してブローカーというわけじゃなくて、やはり地域のことを知っている方を動かさないことには、同じ宮古と言っても、地域によって人間関係が違ってきますから、我々がいきなり行ってもうまくいかない。地域の中にはかならず、まとめ役の人、面倒見のいい人がいるんです。そういう人にずっとお願いしてきました。その方たちに、ブローカーという感覚は持っていません。ただ、宅建業者として残念に思うことは、沖縄県が免許更新の度に抜き打ち検査で入ってくるんです。昭和60年前後まで、警察官を立ち会いに連れて来ていたんです。不動産業者というのは、そこまで信用できない業界なのかな、と残念な思いをした記憶があります。司会手数料はちゃんといただけたんですか。當間僕の場合は、売り切りです。ですから手数料を払うとか、ということはあまりなかったです。司会仲介業は少なかったんですね。當間はい。そのころから業者間でいろいろなやりとりを経て機運が盛り上がって、業者会ができたのが平成6年です。司会有難うございます。これまでは売買についてお話しいただきましたが、賃貸についてはいかがですか。私が記憶しているのは、ある法人が中部の業者と10万円の家賃の契約をしました。手数料10万円をお客さんから貰うんですが、貸主側から取ったらだめだ、と。貸主から1万円出すから、と言われました。あの当時、中部の業者の間では、手数料をまともに取る、という風習がなかったように思われます。この辺、いかがですか。上原賃貸とか管理業は、今や沖縄は先進県ですよ。ヤマトの地方県に行くと、まだまだ定着していません。管理費など取れないということがあります。うちは南風原ですから、今でもその雰囲気が残っていて、貸し手市場なんです。家主さんは借り手が現れると、「アンシェーナー、借ラスミ」というようなもので、なかなか賃貸に仲介業が入るのは難しいところがあります。徐々に、建物が建ってきて、家主は自分が払うお金ではないものですから、業者を使った方がいいのかな、という機運が定着してきました。ちょっと時間がかかりました。管理もそうです。島袋(司会の)今のお話は大家さんが払うから、借家人から取るな、ということですか?司会そうです。那覇では当たり前だったので、非常にびっくりしました。契約して手数料を借家人から取るという認識が貸主になかった-岸本岸本復帰前後は、アパート等の賃貸借契約をしても借主から手数料はもらえなかった。手数料を請求すると「なんで手数料を払わんといかんのか」手数料を支払う認識のないお客様とはいつも口喧嘩ばっかりで、本当に嫌気がさし賃貸管理はお断りしておりました。私は行政書士の看板も事務所に掲げておりましたので、手数料の代わりに行政書士の報酬として支払って下さる程度でした。82 78