ブックタイトル宅建協会50周年記念誌

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宅建協会50周年記念誌

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宅建協会50周年記念誌

ヨーと呼ばれておりました。ブローカー呼ばわりはまだましのほうで、不動産バクヨーと呼ぶ人さえもいた。上原土地バクヨーですね。僕も名刺を二つ作って、(社名が)「物産」という名前だから、営業種目はいろいろありましたから、宅建業を除いたものを同級生にはあげていました。宅建業をやっているなんてとても言えない。そういう時代でした。そして、また本当に暗躍していました。司会今、中部地区の話が出てきましたが、島袋さんいかがですか。真面目で通っていたので「不動産に向いてない」と言われた-島袋島袋私は昭和52年ごろまで外人商社にいて、フォードの車を販売していました。琉石や琉銀などの大手がよく外車を買っていました。たまたま、私のお客さんに不動産業をやっている方がいて、「給料いくらぐらいもらっているか」と聞かれて答えると、「不動産をやったらこれの何十倍ももうかるよ」と言われました。その方の事務所がきれいな構えで、「不動産ってこんなに儲かるのか」と思いました。誘われて、1千万円ぐらい投資して、会社を作ったんです。1年ぐらい那覇でやりました。そうして、その方の悪を全部見てきました。お客さんをだます。これが不動産か、と。「そろそろこの人とは縁を切ろう」と思っていたら、たまたま中部で不動産をやっている人に誘われて、昭和54年に沖縄市で島エンタープライズを設立しました。1千万円は、手形を3枚もらって、ようやく回収しました。先ほどのブローカーの話ですけれど、林元副会長が中部にいて、10何名かで懇親を深めながら模合をしていたら、任意の団体を作って、ブローカーをその団体に入れて、会社に所属させるように指導したんです。それが中部業者会の始まりです。その頃、私は真面目で通っていましたので、「あなたは不動産業に向いていないよ」と言われました。「悪い不動産業を見て来たけれど、私は真面目にやっていくよ」と頑張りました。司会それでは、一番お若い比嘉さん、宜野湾地区ではいかがですか?昭和の終りの高度成長期で売買が主流でした-比嘉比嘉私が不動産業に入ったのは昭和の終わり頃です。初期のころから競売をやっていました。当時は座談会メンバー紹介1比嘉安信2ヒガ不動産3代表者424年1島袋善保2(有)島エンタープライズ3代表取締役435年第二章会員座談会1當間高志2アオバ不動産3代表者430年1氏名2会社名3肩書き4業歴参加する人がいなくて、住宅新聞にも載らないし、裁判所の掲示板しかなかった。その頃の印象としては、業界での模合でも売買をやっている人が中心的な人物で、賃貸をやっている人は隅にいるという時代です。近年は逆転して、成熟社会、安定社会に入って「賃貸を制するものが業界を制する」みたいな感じですね。あのころは、高度成長期ですから開発とか、売買している人が主流でした。私も売買から賃貸に力を入れて、自社物件を増やすような流れになっています。司会有難うございます。最近は、広告関係の取り締まりも厳しくしておりまして、電柱広告等規制の対象になっているわけですが、売買の広告等はどういう形でなさっていたんでしょうか?上原当時は電柱に段ボールで、観光立県どころか、ひどかったです。実は私もやりました。仕事終わって家に帰ってから、家族を引き連れて浦添のパイプラインのところの電柱に貼りつけました。新聞に掲載する金がなかったんだろうと思います。さすがに公取委員長をやったときに、これではまずい、と思って止めました。司会建て売りがあっと言う間に売れたということでしたが、どういう手法だったんですか?岸本昭和48年に創業し立ての頃は、外人住宅の販売にも新聞広告を積極的に活用していました。広告は出したものの従業員がいなっかたので、私は電話応対だけで精一杯、現場案内者がいないから電ビラ案内板を開発し(笑い)、案内版を現場まで電柱毎に貼り付け、オープンハウスの販売形態をしたのは沖縄初でした。オープンハウスは誰にも遠慮なく室内を見ることが出来たからお隣近所の野次馬さんたちも物珍らしさで参加するものだから、買い手の本命達が競争心を煽られ契約を競ったのもこの手法でした。大城僕の場合は、電ビラはほとんどやりませんでした。僕が何をやったかというと、正式な看板です。「大城住宅」の看板が一番多いときにはヤンバルまで60か所ぐらい、業者に頼んで設置さ7781