ブックタイトル宅建協会50周年記念誌

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宅建協会50周年記念誌

比嘉安信島袋善保當間高志叔母に土地の売却を頼まれて味をしめた-大城大城その頃は使わないですね。不動産業を始めた理由は、自分で建物をセメン瓦家サーニチュクヤーニ、これを一つひとつ貸していったら、自分の給料の何倍か入ってくるもんだから、これは早めにサラリーマンを辞めなくちゃいかんなぁと思っていました。そういうときに、僕のウバマーから土地を売却してくれ、という話があった。意外といいところで、今の松山の1丁目1番地です。58号線に面して「リッキー」というコーヒーシャープがあったんです。いいところになればなるほど、分キヤーガマンディ、7名のワキムントゥイシガチャーガマンドーグトゥ、ヘーベートゥ、ウチウヤーに分けておった方がいいと言うものですから、全部引き受けて売却をしました。そうしたら、手数料云々ということも知らないんです(笑い)。チュイナーカールーサーニ、高くで売ってくれた、ということで持ってくるものですから、これを合わせたら莫大な金になりましてね。これはヘークナー(今の仕事を)辞ミヤーニ、不動産シワルヤサ。これがきっかけでした。買い手はヤマトゥーでしたが、相場もよくわからないものですから、思い切って高く言ったところ、「すぐ買う」と。そういうことで味をしめて、不動産業に入りました。先ほど上原社長の話で、最初はへんちくりんな人たちがやっていた、というのは本当にそうでした。上原そうそう。大城ここに大きなポイントがあります。その頃は、不動産屋ーと言っていたんです。「業」じゃない。僕が仕事を始めたときも不動産ヤーです。今はみんなの苦労があって、浄化をして、だんだんよくなって、今はどこの集まりでも堂々と名刺を出せる。ドゥーナーガ、シー始マイヤ、「不動産ヤーディアリー」。この「ヤー」というのが聞きづらくて、「ヤーグトールムノー」ディルアタイの、本当に耳触りでした。岸本その以前はブローカーと呼ばれていました。名刺交換の際、「詐欺集団の役員さんか」、と云われ…社会的地位の低さに呆然となり、会員教育や倫理向上の必要性を痛感させられた。大城軍用地を最初に手掛けたのは、昭和会館です。そこで嘉手納の人から紹介を受けて、私が書いて、直接持って行ったんです。沖縄電力に勤めている人でした。日にちを決めて会った。「ウンジョー、直接ヤミサイ」「チュイヤメーンカイウシガ、直接とイヌムンヤサ」と言うので、何月何日と決めて、そこに集まったら8名越してマンマーウイしているんですよ。「アマンカイウシェー、どなたですか」と聞くと、「アッターンムルグーナシェーンディ言イグトゥ、グーナチャン」こんな調子です。いろいろ聞いたら、「碁打チガチャーニ、集マイネ、ムル分ケムントゥイル人ヌチャーガ・・・」。こういう言い方をすると島袋さんには悪いんですが、中部は大体そういうふうな・・・。島袋そうです。部屋にいたらみんな当たる・・・(笑い)。大城意外と大きな物件ではありましたが、僕は連れていった買い手に、「コーランシェーマシドー」と。ンナイヌワケスンドーグトゥ、コーランケー」と。うちも10分の1、9分の1になるもんですから。別の物件の軍用地を売りました。ああいう調子であるから、岸本社長がおっしゃるように、不動産業者はブローカーのシーと言われる。司会今のお話は30年ぐらい前の、昭和60年ごろのお話ですよね。大城そうです。岸本牛馬を買い集める行商人のことをバク80 76