ブックタイトル宅建協会50周年記念誌

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宅建協会50周年記念誌

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概要

宅建協会50周年記念誌

司会34年前ですね、有難うございます。では、宮古の方では?當間沖縄本島もそうだと思うんですが、土地の動きというのが始まったのは復帰前後ですよね。私は、青葉開発という会社に雇われて、昭和47年の末ぐらいから土地の買い占めに入ったんです。その頃は、宅建業法なんてあるかどうかもわからない、知識もないまま始めました。宮古島の海岸一帯を買い占めていくわけです。復帰前は、大体畑が反当たり30$から70$、復帰すると大体700円から800円という話になっていました。その当時は、土地の売買というのもそんなには多くはなかったんですけれど、とにかく司法書士の先生が足りなくて、契約はしたものの、名義変更の手続きが遅れるものですから、残金が払えない。売ったところからクレームが来ましてね、あとは、司法書士の先生のところへ行って書式を教えてもらって、自分で全部書きました。「先生、これ持って行って、出してください」という具合で、いろいろな思い出があります。まあ、沖縄における不動産の第一次ブームを経験できたことは、非常に有難い経験だったなあ、と思っています。始めたころは市街地調整区も農地法もない時代-岸本岸本當間社長が云われたように、あの頃は「田中角栄総理大臣が唱えた日本列島改造論」の影響で、不動産ブームが沖縄にも伝播した頃であり、沖縄信託や琉球信託の建売住宅は飛ぶように売れた時代でした。農地法が未整備だったので、建売用地の仕入れには農家を訪ね「キビ作の収穫量の倍近い借地料を支払うから貸して頂きたい」旨で説明会を開くと、農家の皆様は喜んで建売事業に協力して頂きました。当時の県民所得は脆弱であったので、高額の宅地付き住宅ではなく安価な借地権付き住宅が人気で、たしか30~35$の建築坪単価で借地権付き建売の価額は1000$以内だったと思います。上原1000$で家が建つ時代です。岸本新聞広告には、販売額と毎月の償還額を併記していたので、頭金もなく支払い能力のない人でさえ家賃支払額に少し足せば返済可能だから是非私が買いたいとせがまれ、返答に困ったことも多々あった。また、復帰前は市街化調整区域や農地法が適用されていなかったので、立地条件さえ良ければ農地であろうがまた地域に関係なく、開発に取り掛座談会メンバー紹介1大城英夫2(有)大城住宅3代表取締役430年1岸本功2(株)大信開発3代表取締役440年第二章会員座談会1上原一男2南新物産3代表者433年1氏名2会社名3肩書き4業歴かり住宅建築を増産したので、取引主任者であった私は契約書作成と契約締結に多忙を極めた思い出がある。復帰後は農地法が厳しくなり、畑地を売りに来られたお客様に「農地は農業従事者以外には売買できませんし、住宅も建てられません」と云うたら「そんな法律を誰が決めたのか!自分の財産を何に使おうと自分の勝手であって畑地だから家が建たないなんて!」とお叱りを受けたことがあった。司会復帰前に、協会への登録もされていましたか。岸本しました、1966年に取得しておりましたので、協会の前身である当時の沖縄土地建物取引業組合と、浦崎会長の元にて理事を1期務めさせてもらいました。司会当時の会員数はどれぐらいでしたか?岸本130社前後だったのでは?理事は13名・監事3名だったと思う。司会先ほど、當間さんが所有権移転ができなくて困った、という話がありましたが、本島内ではどうでしたか?岸本本島内では大丈夫でした。那覇には司法書士がたくさんいました。司会公証人役場なども利用されました?岸本ほとんど利用していません。司会/小橋川共順7579